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【萌える日本史講座】KYなおぼっちゃま武将 毛利輝元の人間味とは…(産経新聞)

 慶長5(1600)年の関ケ原の合戦。東軍総大将はご存じ、徳川家康。一方、敗れた西軍総大将は石田三成と勘違いされるが、毛利輝元である。迷走の末、西軍敗退の責任を背負わされ、名門毛利家を没落させた「愚将」という評価が付きまとう。でも、まことしやかな美談で人気が高い西軍の「名将」よりも、失敗談ばかりの輝元には人間くさい等身大の魅力がある。(渡部圭介)

 ■迷走の始まり

 輝元は「三本の矢」のエピソードで名高い、中国地方の覇者・元就の孫。元就の嫡男・隆元が急逝したため、輝元は幼い頃から祖父の薫陶を受けて育ち、祖父亡き後は元就とともに戦った重臣たちに支えられながら育った。

 慶長2(1597)年、幾度となく毛利家の窮地を救ってきた重臣の小早川隆景が死去する。相談相手がいなくなる不安はあったものの、うるさい年寄りがいなくなり、輝元は40代半ばにして思いのままに家臣団を動かせる「自由」を手に入れた。

 時代は、豊臣秀吉亡き後の天下の主導権をめぐり、石田三成と徳川家康が一触即発の情勢となっていた。三成と家康では、軍事力も人望も釣り合いが取れない。三成は五大老の中で家康に次ぐ力があり、名門・毛利家当主である輝元に白羽の矢を立てた。

 「西軍が勝ったあかつきには、あなたを筆頭大老にしますよ」。三成からの甘い誘惑に、輝元は乗ってしまう。亡き祖父は「天下を望んではいけない」と言い残したが、守りに徹することが家を守ることにはならない。ボンボン育ちのお殿様は、目の前に転がり込んできた「ビッグチャンス」に飛びつき、西軍総大将を引き受けた。

 ■KYな殿様

 輝元は大坂城で豊臣秀頼に謁見した際、感激のあまり涙を流した。所領の石高から「120万石の涙」と語られる逸話だが、その後の輝元の迷走ぶりから、人の甘さを物語るエピソードになってしまっている。

 「輝元の失敗は、家臣団に根回しすることなく決断してしまったこと。主君の言うことは絶対である、という輝元なりの理想の主君像があったのでしょう。しかし、これが一世一代の失敗になりました」(毛利博物館)。

 「俺様の方針に、みんな付いてこい!」。輝元が殿様気分で下した指示は、実際は“KY”(空気が読めない)な判断だった、と言えそうだ。

 重臣の一人、吉川広家は一枚岩にならない西軍の行く末を案じ、「これからは徳川の時代になる」と踏んだ。輝元に西軍に加わらないよう説得。家康との主戦論を唱える家臣たちと激論を交わしたが、輝元は聞き入れなかった。広家は独自に毛利家存続の道を探り、領土保全を交換条件に家康と内通する道を選んだ。もちろん、輝元には知らされていない。

 いとこの毛利秀元も、輝元の決断に不安を抱いた一人とされる。毛利家と豊臣家に火の粉が飛ばないよう、三成らの“小さな”反乱に仕立てることで収束をはかったが、輝元に「もう遅い」と一喝された。

 ■名門断絶の危機

 関ケ原で火ぶたが切られたとき、輝元は大坂城でお留守番。現場の総責任者は秀元が務めた。南宮山という、家康を袋のネズミに追いやる絶好のポジションに布陣したと聞き、輝元も勝利を確信しただろう。

 しかし、足並みが乱れた毛利軍は関ケ原で機能不全に陥った。山の麓に陣取った広家が家康との約束通り微動だにせず、これに邪魔されて本隊が山を下りることができなかった。毛利軍の「傍観」で西軍は力を失い、小早川秀秋の裏切りで壊滅した。

 関ケ原で負けたとはいえ、敗れた兵士を大坂城に結集させ徹底抗戦する手もあった。一戦交えて、和平工作を優位に進める道もある。

 広家の内通を知った輝元は怒るどころか、領土が保全されることを聞くと大坂城から撤収。やすやすと城を家康に明け渡す。

 これは甘い判断だった。戦後、家康は広家との約束を反故。西軍総大将としての輝元の責任を追及し、毛利家の領土没収の上、広家に周防、長門両国を与える決定をする。名門毛利家は断絶の危機を迎えた。

 ■輝元の英断

 幸運だったのは「毛利軍団」の結束が腐っていなかったこと。広家は領主になるチャンスを捨て、毛利家存続に奔走する。「毛利家の名前は残してください! 今後、徳川家に楯突けば、輝元の首を取ってきますから」と家康に懇願。周防、長門両国は毛利家に与えられ、輝元らの命も保証された。

 とはいえ中国地方の覇権を握った毛利家を、輝元が没落させた事実は揺るがない。しかし、ここで「英断」が下される。徳川の天下は揺るぎないと確信し、徹底的ともいえる家康への恭順姿勢を取った。

 居城の広島城を追い出されただけでなく、石高は4分の1に減らされたことを考えれば、家臣たちのサムライ魂に火がつき、家康に楯突こうと考えてもおかしくない。輝元は血気盛んな家臣を追い出すことも辞さない厳しい姿勢で毛利家の統制に乗り出した。

 幕府からは「いじめ」のように城建設の協力を要請された。藩財政は悪化、領民の不満も高まり一揆も起きた。でも、輝元は恭順姿勢を崩さなかった。

 ■主君になった輝元

 「輝元の功績は幕府にべったりするのではなく、絶妙な距離感を保ち続けたこと。べったりしていたら、長州藩は倒幕の中心的な存在にはならなかったでしょう」(毛利博物館)。

 慶長20(1615)年、徳川vs豊臣の最終決戦となる「大坂夏の陣」が起きる。輝元は家康からの出陣要請に従う一方、家臣の一人、内藤元盛に兵糧と軍資金を持たせて大坂城に送っている。豊臣家が勝った場合に備えた策略といわれ、根強く残る反徳川派の家臣に配慮した、一種の根回し工作にもとれる。

 大坂城が落城し、元盛は徳川陣営に捕らえられる。毛利家の関与を追及されたが、元盛は完全否認した。結局「嫌疑不十分」となるのだが、輝元は元盛の子たちを自害させ、疑惑を抱かせたことを家康にわびる非情の主君を演じている。

 「『関ケ原以降の徳川家の毛利家に対する仕打ちを思えば、出奔して大坂方に走る者が幾人か現れても、おかしくはなかろうて』輝元は不敵に言ってのけた」(池田平太郎著『傾国の烙印』)。

 多くの家臣や領民を犠牲にしつつも、したたかに守られた毛利家のプライドがやがて江戸幕府を倒し明治維新に導いた。失敗から学ぶことの大切さを、輝元は実証してみせた気がする。

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by z2iz0xl8dv | 2010-04-30 23:56
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